弁証法的統合は、主体的な学びの方法的概念です。この中で見方・考え方を豊かにする説明を投企機(スポットライト)をモチーフにして行っています。一般にRGB(赤緑青)の光を重ねると中心部分は無色透明に近づくことを、私たちは知っています。これと同様に、3人の捉えを重ねたなら彼らの思い込みを乗り越えた見方の合意に近づくことができます。ただし、ここで言う「捉えを重ねる」とは、若松の言葉を借りれば、「彼が何を見たのかに『ついて』知るのではなく、彼が観たもの『を』、私たちもまた、自分の人生を反芻しながら発見」[若松2019]することです。そして、「合意に近づく」とは、佐伯の言葉を借りれば「学び手が一人ひとり『私の物語』をつくり、それが全体として『共同体の物語』となる」[佐伯2017]ことを意味しています。私は、色づけされた捉えを重ねることによって協創したー(語弊を恐れずに言えば)“愛着”を伴うー物語を「私たちの真実」と称しています。(第4講 私たちの真実より抜粋加筆)

弁証法的統合がもたらすものは「私たちの真実」にとどまりません。地平(経験的価値判断の広がり)を統合(accommodation)することで自由と承認の対峙の止揚を可能にするのです。すなわち、捉えを重ね合意する体験からわかること、それは他者存在の意義です。他者は、自らの思い込みに気づかせてくれると同時に、彼自身のそれへの気づきに貢献することを託してくれる存在でもあるのです。このことを理屈抜きで会得したとき、私たちは自らの経験に他者を受け入れるのです。これは他者性を承認することであると考えます。つまり「自己の深みにおいて他者と深くつながる」[中川2005]ことなのです。またミラーの言葉を借りれば「自分を他者から切り離して、自分の世界に閉じこもることではありません。むしろ他者に開かれ、ありのままの他者を受け入れ、自分のなかにつつみこむということ」[ミラー1997]です。私は、この様相を「観想的融即(contemplative participation)」と称しています。(第4講「自」の視座における他者性の承認より抜粋加筆)
同時にこれは、自らの執着を解き放つことでもあります。つまり「自己を一方において、ペルソナの偽りの被いから解放することであり、他方において、無意識の様々なイメージの暗示的な力から解放すること」[ユング2010]なのです。(第4講「我」の視座におけるありのままの主体の認知より抜粋)
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