私は、主体的な学びとは人生の学習観に適うものであると考えます。いわゆる見通しとは、前述した山登りの例えで表現すれば、一人ひとりの通景(vista)に過ぎません。人は、実際には通景とは異なる道なき道を挑んでいくなかで、その痕跡から眼差しの変化そして自己の存在意義を識るのです。この究極の覚りが、目指す先にあるのではなく足下にあるという「等覚一転名字妙覚(とうかくいってんみょうじみょうかく)」の考えです。しかし、学校現場でこのような捉え方を展開しようとすれば、これまで広く定着している教育のあり方を抜本的に変えていかなければならないでしょう。教師は主に正解のための「学び」を子どもたちに培ってきています。そして学習成果を点数によって表してきました。一方「学び」自体は、本来内面に関わることです。そして主体的な学びでは自らの深みから生まれる意味を探求することになります。探究ではなく探求すること、客観的な答えを究めるのではなく見方・考え方を豊かにするのです。
従ってそこには一律な尺度はないはずなのですが、これまでの教育の習わしからこの学びに関しても教師が評価しなければいけないため、あえて主体的を興味・関心・態度、言い換えれば自主的・能動的・積極的といった客観視可能な尺度に置き換えているのではないでしょうか。主体的な学びを第三者は評価できません。本人に頼るしかないのです。近年導入されているリフレクションはその手段です。この活用では子どもに自分の為に振り返る意義を理解させ、安心して見方・考え方の変容を探ることができるよう配慮しなければなりません。子どものオーナーシップを尊重する姿勢が大切です。(第3講 主体的な学びの定義より抜粋再構成)

Comments