「(心という)存在の有り様には私という存在も関与している」[横山2001]ように、主観は自己に規定されます。同時に主観は、自己を再構築します。そして、横山が、「自分をつかみつつある『自分』を決してつかむことはできない」[同書]と述べているように、主観と自己の間には、同時に捉えることができない、言わば「不確定性原理(principle of the uncertainty of one's essence)」[竹村2009]が存在するのです。これが、フッサールの指摘する人間的主観性の逆説[フッサール2011]にあたると、私は捉えています。(第3講 主観と自己存在の随伴より抜粋)

一方、神経科学ではこれに関連して束理論があります。これは、心がその時その時に派生した意識の束によるものであるという考えです。
・束理論を理解し受け入れることは、とても難しい。束理論を認めれば、自分が意識と自由意志を持つ存在であるとか、この特定の身体の生(なま)を生きている存在であるという考えを完全に捨て去ることになる。そして、その代わりに、「自我」という語は、便利ではあるが実存するものや持続的なものをいっさい指さない、単なる観念や言葉にすぎないということを認めなくてはならなくなる。[ブラックモア2015](第3講 直観より抜粋加筆)
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